だって、あなたは
070:きっと貴方は救われることなど望んでいない、それだけは判っていた
ガチャガチャと配線をいじりながら傍らに置いてもらった表示画面とにらめっこする。それぞれの部位の消耗具合や損壊の程度が判る。実際に目で確かめなければならぬ箇所もあるから、整備部にばかり任せてもいられない。実際に動かす操者と機体情報に誤差があっては困るのだ。ましてバージョンアップされた上に特殊な武器も装備してある機体である。専用機と言って差し支えはなさそうだ、カラーリングも灰色の四聖剣と違って蒼色なのだから。先刻これを揶揄されたばかりだ。専用機と言っても完全な新規生産のものであるから試作機という見方もある。情報が先行機である紅蓮で取ってあるから大丈夫、とは言われても、情報はあればあるだけいいのよねェお願いね、などと言われては気楽に動かせない。実働データをフィードバックし端末機器へ転送する。記録情報の転送を何度か繰り返しながら摩耗した部品の目録を同時に作る。
風が欲しいな、と思う。戦闘機が置かれている場所はほぼ完全に密閉状態にあるから風通しは非常に悪い。そもそも戦闘機でありながら精密機器であるものの保管場所である。日常の砂塵でどうにかなるとは思わないが何かあっても困るのも事実だ。それに戦闘機の大きさと機密性を高めるために外部へ極力内部をさらせないようになっている。外から覗かれて情報を盗まれても困る。こういうとき、ライはいつも路地裏の腐敗した運河を思い出す。残飯や錆びた空き缶の流れる運河が港湾部へ直結し海へ汚水を垂れ流すあの結合部へ行きたくなる。ゲットーと呼ばれるそこかかつて日本という名を持つ国であった。ライはそこになんの感傷も持たない。断片的とはいえ戻りつつある記憶にもこのエリア11と名前さえ奪われた国に対する感情は希薄だ。覚えはある。箸も使えるし日本人が話す日本語も多少判る。日本をエリア11に変えた神聖ブリタニア帝国はどちらかと言えば欧州寄りなので言語も微妙に異なる。路地裏にはあぶれた日本人の日本語が満ち溢れていた。同時に蔓延する『リフレイン』なる麻薬もある。締め付けが厳しくなるほど反政府組織の抵抗や裏道での治安は悪くなるばかりだ。
ぽーんと気楽な電子音が鳴ってすべての作業の完了を知らせる。あとはそのまま蓋をすればいいだけだ。ライは襟を弛めながら身軽く飛び降りると抱えていた端末を部署のものに渡す。渡された側も了承済みでここからはライの戦闘機実働の腕ではなく精密機器の整備という部類の腕が振るわれることになる。つまりライはもういてもいなくていいのだ。ライは控室を兼ねた更衣室へ向かう。お愛想に置いてあるベンチや錆びの浮いているロッカーなど敵国からの払い下げ品も多い。ロッカーはそれぞれが固有するのではなく一時的な手荷物や着替えの置き場となり不特定多数の人間が同じロッカーを共有した。
「あっつー…」
四季折々の変化を迎えつつあるこの国は不意に暑くなったり寒くなったりを繰り返す。反政府組織である黒の騎士団の団服に着替えようとパイロットスーツの留め具に手をかけた。その手が迷う。どうしようかな出かけようかな。治安が悪いことと居心地が悪いことは別問題だ。嫌いな奴がいるからと言ってその場すべてを嫌うことはないように。ライはゲットーにどうしても郷愁を覚える。血縁として日本人であると言われたのも大きい。
ライは日本人のしかも貴族の混血であるらしい。その所為か上層部には受けは良かったがお飾りに使われる感は否めなかった。だが騎士団ではそんなことは通用しない。それが好かった。顔さえも思いだせない母親の血に縛られるのはごめんだ。パイロットスーツの袖から腕を抜く。腰のあたりでまとまるように上半身だけをあらわにする。胸部を覆うインナーが白く汗を吸っていた。
「んー…」
腕を伸ばして柔軟のようなことをしていると扉が開いた。卜部だ。奇跡の藤堂直属部下である四聖剣に名を連ねる猛者だが見た目はただの痩せ男である。身長は生まれる人種を間違えたと言わんばかりに高い。ライは彼と話すときは大抵上を向くことになる。
「あ、中尉。整備ですか?」
ライの声が華やぐ。ライは少なくともこの男に対して好意を抱いている。もちろんそれを自覚しているしそれがどういった性質のものかも判っているつもりだ。だがそれを相手に告げたことも無理強いしたこともない。秘めたままにするつもりだ。
「お前もか…って専用機持ちは大変だなァおい」
クックッと笑いながら卜部も着替えを始める。留め具を外して引き下ろす。臍のあたりまで露わになるそこから尖った腰骨が覗き、布地に包まれた下半身を邪推する。ライも卜部もお互いがいるのでなんとなく遠慮があってパイロットスーツを脱げない。爪先までを覆うスーツであるから着替えるには一度全裸に近い状態になるのだ。無論サポーターはつけているがそれでも気後れする。
「そーです、大変なんです。期待を一身に背負う僕は大変なんでーす」
卜部から言われた揶揄を揶揄として返す。卜部が言ったのだ、お前への期待の表れだな、この専用カラーリング。期待につぶされんなよ、とも。案の定卜部がぐぅと黙る。だがそれで怯んだとて黙っているほど卜部だってうぶではない。
「おーじゃあ期待してやらァ。次の戦闘じゃあブリキ一個中隊全滅させろよ」
二人で噴出して笑う。軽い笑い声が響いてライの気が弛んだ刹那、だった。
「あんた、最近路地裏に出入りしてるらしいじゃねぇか」
ぴりぃっと空気が弾けた。ライの暗蒼色の瞳が薄氷色に透けていく。亜麻色や白銀であるはずの髪はぼさぼさで、それでいて毛先へ行くほど蜜色に透けていく。それらの色彩変化はライの内部で何か劇的な変化があった場合に限られた。ライの視界の色や範囲が変わるということはなくたんに見た目だけが変化する。
「…それが、中尉に何か?」
誤魔化しの利く相手ではない。卜部を見くびる輩も多いが卜部とて四聖剣に名を連ねるものだ。観察力、洞察力、判断力、並の輩が敵う相手ではない。だがライもそれでおとなしく説教を受け入れるほどいい子ではない。
「『中尉』としては止めろと言いてェところだが事情があるらしいからな、お前さんは。だが『俺』としては言っておく。やめとけ。あそこの闇はな、むやみに踏み行ったらいけねェ場所なんだよ」
ライはロッカーを開けて硬貨を探り出すと投入口へ入れた。好みの飲料のボタンを押すと吸い口のついたボトルが落下する。訓練中でも口に含めるように上部はきっちりと蓋で覆われ飛び出すノズルが吸引口になっている。
「記憶探しですよ。僕はこれでも記憶喪失者だからどんな情報でもいいから欲しいんです」
ノズルを咥える。ライはお仕着せのベンチに乱暴に腰を下ろした。錆がさらさら降ってギシリと軋む。
「あんたの記憶はだいぶ戻ったらしいって聞いたけどな」
卜部は我慢強く応対した。目の前で無粋に飲料を呑まれても咎めもしない。その代わり軋むロッカーに背を預けて長期戦の構えを見せた。
「戻ってませんよ。判ったことはいくつかあるけど。それでもゲットーには何か、感じる…」
ライの目がぎらっと卜部を睥睨した。
「路地裏が暗渠だって知ってるってことはあなたもそこの住人なんですか」
卜部は肩をすくめた。はぐらかされるかと身構えるライに卜部はあっさり言った。
「そうだよ。あすこは俺の揺り籠だ。掏りもかっぱらいもあすこで覚えた。泥水すすって生きるすべとか、な」
そう笑う卜部の顔がどこか悲しげでライは尖っていた気分が落ち付いて行くのを感じた。どんなに怒っていても泣きだしそうな人や泣いている人を見るとライの怒りは収まってしまう。特に年少者にそれは顕著に表れた。弟妹でもいたのかもしれない。
「だからよ。その俺が言うんだから言うこときいてくんねェかなァ。中佐も心配してたぜ、ゲットーへ何をしに彼は行くのだろう、ってな」
「救われたいから行くんですよ」
卜部の目が瞬いた。茶水晶だ。少し小ぶりだがそれでも透き通ったそれは黄結晶のように煌めいた。
「だってあそこは本当にすごく…力がものをいう場所だ。情報も正規品とは比較にならない。無論ガセを掴まされる可能性もあるけどそれはほら、僕の技量しだいですしね? ある程度は血も見ました。あそこにいるには綺麗じゃいられない。僕が知らないとでも思ってるんですか? 僕は僕がなんであるかを知りたい。正当なルートから僕の情報を得るのは難しそうだから裏を当たった、それだけですよ? 中佐やまして中尉がご心配くださることの部類じゃ――」
卜部の右腕がしなった。力強い平手打ちが炸裂して、舌の上をごろりと固いものが転がった。ずきりと脈打つ痛みと同時に溢れてくる液体は口腔から飽和して溢れた。げほ、と吐いたのは血だ。血まみれでころりと転がるそれが真珠の煌めきを宿す奥歯だ。舌で探ると頬裏が裂けている。同時に奥歯も一本欠けていた。平手とは言え一介の軍属である男に殴られたと思えば軽く済んだ方か。拳でやられていたら奥歯一本では済まないだろう。
「…理不尽だな」
「あァそうだ理不尽だ。俺はお前に嫌気がさしたからぶん殴ったってェだけだ。ただむかついただけだ」
それでも。ライは卜部の筋肉が躍動するのを目の当たりにして魅了された。やはり自分はこの男が好きだ。だがそれは口にしてはならない。何故だかライはそう思っている。言わない方がいいことがあることくらい知っているつもりだ。
好きだと思う。こういうふうに親身になって叱ってくれるところとか。気になんかァしてねェと云いながらいなくなればあいつどこ行きやがったと探しに回る。そう言う不器用な優しさ。
ライは飲料で口をすすぐと嚥下した。吐きだす場所もないしこれ以上床を汚したくなかった。呑みこんだ血は胸糞悪いものだった。己の至らぬ点ばかり浮き彫りになる。ライは記憶がない。生活をするにあたっての行動や意味合いは知っているものの、個人的な情報、家族構成や出生地、出身地や所属団体、そう言ったことはほぼ判らない。だからゲットーへ足を運ぶのだ。ゲットーは唯一街中を歩きまわった結果として何かとっかかりのある場所だったからだ。既視感と言った方が近いか。見たことあるような気がする。ライにあるのはそれだけだ。
「僕がゲットーや路地裏へ顔を出してるってことを知ってるってことはあなたも行ってるってことですよね? そちらは御咎めないんですか? 中佐からとか」
呑みこんだ血が気持ち悪い。ライはいやらしく口の端を吊り上げた。下種になるのは簡単だ。卜部は先刻浮かべた悲しげな笑みを見せたがすぐに、はン、と鼻で笑った。
「あるぜ。でも行くんだよ。お前さんみたいにな。けど」
「俺は救われたいなんて思ったこたァねェよ」
底辺で生まれて底辺で育って。スクイってなぁに? それが疑問だった。まともな寝床があることを知って初めて己の状況の劣悪さに気付いた。だがこのライは違う。ちゃんとした寝台や食事や風呂場を持っている暮らしをしていた。見れば卜部にも判る。浮浪児だった卜部からして見ればライの年齢のころにはすでにある程度の軽犯罪も犯していた。もっともライが何歳なのか正確に訊いたことはないし本人も判らないようだが。
だから判るのだ。ライはここにいるべき人間ではないと。路地裏の暗渠を行き来するような性質の生まれではないのだと。だから卜部は突き放す。あそこはお前の領域じゃない。
「それはあなたの勝手な見解だ」
「お前の判断だって同じだろうが。お前が勝手にあすこに価値を認めてるだけってェ話だ」
ライの顔が泣きだしそうに歪む。白皙の美貌の中で妙に紅い唇が戦慄いた。薄氷色に薄まって収縮していた双眸からぼろぼろ涙があふれた。殴りつけた頬は晴れて紫色に変色しつつある。奥歯まで折っていたとは手加減が足りなかったと卜部は心中で反省した。吐きだした血であたりは惨状だ。何も知らぬ輩が見れば厄介だ。卜部は部屋の隅のモップを取り、バケツに水を溜めた。
「吐きたきゃここに吐け」
二口しかない水道だがそれなりにシンクは広い。ライは頷いたがそこから動く様子がない。卜部はため息をついてライが吐いた血をモップで掃除した。己が殴りつけた結果だと思えば当然でもある。
ライはそっと立ち上がるとベンチに座りなおした。殴りつけられた頬はまだ脈打つような痛みを帯びた。
「手当は要るか」
ライは頭を振って拒否の意を示した。己の落ち度で殴られその手当てまでされてはライの立つ瀬がない。
「中尉が、路地裏育ちだなんて初めて聞いた」
「訊かれなきゃあ云わねェのが流儀なんだよ、路地裏の。だから俺も訊かれねェから言わなかっただけだ。俺は自分が悪いたァ思ってねぇぜ」
ライはノズルを口に咥えた。飲料と口腔にへばりついた血を呑み下す。苦い。卜部は掃除用具を洗浄している。紅い水が排水溝へ渦を巻いて吸いこまれていく。
「卜部さんは、自分が救われたいと思ったことはないんですか」
もっといい暮らしがしたいとか。美味しいご飯が食べたいとか。ふわふわの寝台が欲しいとか。愚痴さえ聞いてくれる友達が欲しいとか。卜部の茶水晶はちらりとライを見たがすぐに逸らされる。
「ねぇよ」
「うそだ!」
ライが噛みつく。卜部は鬱陶しそうなそれでいてどこか慈しむような嬉しげな眼差しをライに投げた。
「何もなかった僕とは違うあなたが、何の救いも求めないなんてありえな」
「なんもねぇよ」
卜部の言動は冷たかった。
「俺にはなンもねぇ。四聖剣だって中佐が解散だっていやぁ解散だ、ただの戦闘要員にまで堕ちるさ。おまけに所属は黒の騎士団。立派な反政府組織だぜ? 戦闘力として計算されている以上何もなくおさらば出来るたァ思ってねぇ」
だから俺は俺が救われたいなんて思うなァやめにしたんだよ。
「お前も覚悟決めとけ。俺達がやってんのはレジスタンスじゃねぇ。戦争しかけてんだ。明日抜けますってェ抜けられる立場じゃねぇ。まして専用機持ちのあんたならなおさらな」
卜部はつけつけと正論を言う。ライは拝聴するだけだ。それが正当であることくらい判っている。それでも。
「救われたいと思ったことがないあなたが、哀れだ」
底辺を這う生活と成長。それでも卜部は助けも救いも要らぬという。それがひどく哀れなような気がした。
「うるせェなぁもう一発殴られてェのか。俺は俺の境遇から別に救い出されたいなんて思っちゃあいねェんだよ、嫌んなったら自分で抜けだすだけだ」
だからお前が泣くことはねェんだよ。
ぼす、とライの頭の上に手が乗った。そのまま亜麻色の髪をぐしゃぐしゃとかき回される。その時になって初めてライは自分が泣いていることに気付いた。卜部が自分は救われたくないと言っているのが哀しいのだ。
「中尉」
「そうだよ、俺は中尉様だよ。だからお前が気にすることなんかなンもねぇ。ガキはガキらしくテメェのことでいっぱいいっぱいになってりゃあいいんだ」
情けない。ライは泣いた。卜部を救いだせないこと。卜部がそれを拒否したこと。
「救いを信じるくらい俺は、うぶじゃねぇ。穢れちまってンだ。だからあんたが気にすることじゃねェよ」
ライは声をあげて泣きたかった。己の存在さえ無力で、その事実がライの心を蝕んだ。
《了》